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所在地 | 富山県富山市本丸 |
交通機関 | JR北陸本線 富山駅下車 富山市内軌道線 丸の内下車 徒歩5分 | 別 名 | 安住城・安城・浮城 |
略 歴 |
富山城は、天文12(1543)年、越中守護代神保長職が水越勝重に命じて築城したとされる。 また、近年の発掘調査によって、室町前期の居館遺構が発見されており、城館としての成立はこれを遡ると言われている。 神保氏は越中西部を本拠とする一族で、神通川東岸への進出を目論んでの築城であった。 一方松倉城を本拠とするもう一人の守護代、椎名氏を刺激し、椎名氏の後ろ盾であった越後守護代、長尾氏による介入を許す事となった。 永禄3(1560)年、長尾景虎(上杉謙信)が越中に侵攻すると、富山城を攻略、長職は逃れて増山城へ本拠を移す事となった。 その後、越中は上杉・武田・一向一揆の勢力が入り乱れて争う場となるが、元亀3(1572)年6月、一向一揆が富山城を降してこれを拠点化を進めたため、上杉謙信の出兵を招き、岩瀬城・稲荷屋敷・本郷城・二宮城・新庄城などを固めてこれを包囲し、天正元(1573)年、富山城を降して一向一揆の勢力を駆逐した。 謙信はこうして獲得した越中を足掛かりに、能登・加賀へ進出していったが、天正6(1578)年、越後春日山城に没した。 謙信が没すると、西から織田信長の勢力が伸張し、天正8(1580)年、長職の子、神保長住が信長の家臣、佐々成政の支援を得て富山城に入城した。 天正10(1582)、長住の家臣、小島職鎮・唐人親広が離反して上杉氏と結び、富山城を占領するが、佐々成政によって織田方が奪還した。 これによって、長住は追放され越中神保氏は滅亡、富山城には佐々成政が入城した。 本能寺の変の後、天下の形勢は羽柴秀吉に流れたが、成政は、天正12(1584)年、小牧長久手合戦で秀吉と戦った織田信雄・徳川家康らと組んで、反秀吉の旗を挙げた。 しかし、本戦が信雄の単独講和によって幕を引くと、家康の決起を促すために冬の立山を越えるさらさら越えを敢行、浜松城に家康を訪ねたが、説得に失敗し、富山城に戻った。 翌13年、秀吉は金沢城を本拠とする前田利家を先鋒に10万の兵を率いて越中に侵入、白鳥城を本陣として富山城を望んだ。 成政は剃髪して降伏、一命を助けられたが、領地を新川郡のみに削られ大坂在住を申し付けられ、富山城は破却された。 天正15(1587)年、成政は肥後国主として隈本城に下向、越中は前田利家に与えられた。 慶長2(1597)年、利家の嫡男利長が富山城主として入城したが、翌年家督相続のため金沢城へ移り、替って前田長種が入城した。 慶長10(1605)年、利長は藩主の座を3代利常に譲ると、隠居城として富山城に入城、城を整備したが、慶長14(1609)年の大火で富山城は焼失、新たに高岡に新城を築いて移っていき、富山城は廃城となった。 寛永16(1639)年、加賀前田藩は前田利次に10万石を分知した。 利次は領地外で廃城となっていた富山城を借用して仮居城とし、百塚に新城の築城を図ったが、諸般の事情で築城を断念し、加賀前田本藩と領地交換を行い、富山城を正式に居城と定めた。 この後、前田氏が13代に渡って富山藩を治め、13代利同の時に明治維新を迎えた。 |
現 況 |
富山城址は城址公園となっているが、現在整備中である。 模擬天守閣は昭和29(1954)年、富山産業大博覧会の目玉として、犬山城や彦根城を参考に建築されたもので、現在では登録文化財となっている。 本丸南側のみ水濠が残されており、また鉄門付近と搦手門付近の石垣が往時を忍ばせてくれる。 なお、市内にあった唯一の現存建築物、千歳御門が城址東側に移築されている。 |
三之丸・二之丸 |
大手門付近 |
二階櫓門跡 |
二之丸跡 |
西之丸 |
南側土塁と水濠 |
本丸・西之丸間 の堀跡付近 |
南側土塁と水濠 |
西南側土塁と 堀跡 |
西南側土塁と 堀跡 |
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西北側土塁と 堀跡 |
西北側土塁と 堀跡 |
北西側土塁と 堀跡 |
北側土塁と 堀跡 |
北側土塁と 堀跡 |
本丸 |
本丸北側 |
千歳桜と石碑 |
祠 |
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