帝國博物学協会
越中國
増山城
 所在地 富山県砺波市増山
 交通機関 JR城端線 砺波駅下車 加越能バス栴檀野線 増山下車 徒歩30分
 別  名 和田城
 略  歴 南北朝期、和田城と呼ばれていた城が増山城と考えられている。
戦国期、永正(1504〜21)年間に入ると、増山城は越中守護代神保氏の主要な城で、礪波郡に睨みを利かした。
永禄年間、神保長職が守護代になると、神保氏は勢力を増し、富山城を築城して上杉方の椎名氏と対立したが、椎名氏の後詰めとして上杉氏が越中に侵攻してくると、富山城を放棄して増山城に籠った。
しかし、上杉氏が増山城に攻め寄せると、長職は再び城を捨てて落ち延びていった。
長職はその後上杉氏に属して一向一揆と対陣している。増山城は一時的に一向一揆の拠る所となったが、天正4(1576)年、上杉謙信に攻められ落城した。
謙信の死後、織田信長勢が越中に進出すると、増山城も織田方の佐々勢に落とされた。
佐々成政が前田利家と対立すると、増山城も前田方に備えたが、成政の降伏後前田氏の持城となった。城は、一国一城令により廃城となった。
 現  況 現在一之丸・二之丸・三之丸など郭跡や、石垣などが残されている。また、和田川の対岸に城下の土塁が残されている。

増山城搦手口

一之丸

一之丸小口
土塁

一之丸土塁

石垣

二之丸

二之丸土塁

手水鉢

鐘楼堂跡

土塁

土塁

馬洗池

足軽屋敷

空掘

入水井戸

土塁

空掘

又兵衛清水

大手口

増山城下土塁

増山城下土塁
遠望
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