帝國博物学協会
越中國
安田城
 所在地 富山県富山市婦中町安田
 交通機関 JR高山線 婦中鵜坂駅下車 徒歩10分
 別  名 安田塁
 略  歴 天正12(1584)年、小牧長久手の合戦で織田信雄・徳川家康側に立って豊臣秀吉と対立した佐々成政であったが、信雄・家康が相次いで秀吉と和睦するに至って、孤立を余儀なくされていった。
成政は立山ざら峠を越えて浜松城へ家康を訪ね、再起を要請したが、結果を出せずにいた。
翌天正13(1585)年、秀吉は成政を征討するために陣を北陸に進め、成政の籠城する富山城を望む白鳥城を本陣と定め、大峪城とともにその前進基地として、前田利家の家臣岡嶋喜三郎一吉を城主として入れた。
成政は秀吉に降伏したが、佐々領として新川郡が残されたため、新たに越中西部を与えられた利家は、その押さえとして安田城に一吉を残した。
天正15(1587)年、成政に肥後一国が与えられ、隈本城に転封となると、新川郡は秀吉直轄領となった。
慶長2(1597)年、利家の嫡子利長が居城を守山城から富山城へ移すと、一吉は再び白鳥城へ入城し、更に安田城へ居を移した。
慶長4(1599)年、利家が没すると、利長は前田氏の本城金沢城へ移ったため、一吉も金沢に移転した。
安田城には替って代官平野三郎左衛門が居城したが、慶長年間には廃城となったようである。
 現  況 城址は圃状整備事業の対象となったが、空撮による写真からこの地に城跡があったのではないかという疑念から、昭和52(1977)〜53年にかけて発掘調査が行われ、城址が発見された。
昭和56(1981)年、城址は国の史跡に指定され、平成2(1990)年〜4年にかけて整備復元が行われ、土塁・水濠が復元された。
また、安田城跡資料館が城址の傍らに建てられており、城の歴史などを示している。
右郭

右郭西面と土橋
水濠

右郭西南角と
水濠

右郭南面と水濠

右郭南面と水濠

右郭北面と水濠

右郭北西角と
水濠

右郭西面横矢
と水濠

右郭西面横矢
と土橋・水濠

右郭西土橋

右郭西南側

右郭東南側

右郭北側

横矢から土橋
を望む

西虎口と土橋
二之丸

二之丸西南側
と水濠

二之丸南西側
と南虎口と水濠

二之丸南西側
と右郭東側

二之丸南虎口
と土橋

二之丸南東側
と水濠

二之丸南東側
と土橋・水濠

二之丸南東角
と東水濠

二之丸西虎口
と土橋

本丸西北角

二之丸西虎口
と土橋

二之丸西土塁

二之丸東南側

二之丸東側

二之丸(南向き)

二之丸(西向き)
本丸

本丸南西角
と水濠

本丸東南角
と水濠

本丸東北側

本丸東側土塁
と水濠

本丸北側土塁
と水濠

本丸北西側と
水濠

本丸西北側と
水濠

本丸南東側土塁
と水濠

本丸大手口

本丸大手口

本丸(南向き)

本丸北西側

本丸北東側

本丸南側土塁

本丸北側土塁上
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