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所在地 | 富山県富山市海岸通 |
交通機関 | 富山ライトレール 岩瀬浜駅下車 フィーダーバス 田畑口下車 徒歩10分 | 別 名 | - |
略 歴 |
永正年(1504〜20)間、国人轡田氏によって築かれたといわれている。 轡田氏は太田荘轡田を苗字の地とする、越中屈指の国人であり、神保氏に従っていた。 しかし、越後から長尾氏が越中に侵攻すると、轡田氏は長尾氏に従うが、長尾氏が引揚げると再び神保方に転ずるなどして、乱世を漂っていた。 天正6(1578)年、上杉謙信が越中に侵攻すると、城主轡田豊後守雅正は城を固めて、上杉軍の侵攻に備えた。 上杉氏は先陣を河田豊前守長親とし、謙信自ら陣を進め、日方江に本陣を置いて大村城を攻撃した。 雅正は大村城に籠って長親の猛攻に耐えたが遂に落城、雅正以下一族郎党が討死した。 |
現 況 |
城址主郭は瑞円寺となっており、ニ郭は隣接地の民家となっている。 大村城の性格から考えると、上杉氏への備えから大手は東向きにあったと考えられ、ニ郭にある民家の門の位置が大手であったと考えられる。 城址案内板は瑞円寺入口脇に立てられており、「曹洞宗瑞園禅寺」の石柱には「轡田豊後守雅正之旧跡址」と記されている。 城址には土塁や堀跡が残されており、城址の雰囲気を十分に醸し出している。 なお、周囲には轡田豊後守旧跡のくまの地蔵や、天正6年の上杉氏の攻撃に関する旧跡であるそうけ塚、戦死者を弔った精霊塚など当時に纏わる旧跡が残されている。 |
遠望・二郭 |
城址遠望 |
二郭南西側 |
二郭南面と 主郭(奥) |
ニ郭南東側 |
ニ郭東南側土塁 と堀跡 |
大手道 |
ニ郭東北側土塁 と堀跡 |
ニ郭北面土塁 と堀跡 |
ニ郭北面土塁 と堀跡 |
主郭 |
主郭南面 |
主郭南東側と 二郭 |
主郭南面 |
主郭南面 |
主郭西南側 |
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主郭西側 |
主郭北東側 |
主郭北側堀跡 |
主郭北西側堀跡 |
主郭西側 |
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瑞園禅寺石柱 |
大村城址案内板 |
瑞円寺山門 |
瑞円寺本堂 |
瑞円寺境内 |
くまの地蔵 |
浜黒崎から続く松原に魔物が現れ、往来の者を苦しめるという噂が合った。これを聞いた武名高き大村城主轡田豊後守は大いに怒って魔物退治に出かけるといいだし、単身松原の奥深くに分け入った。
にわかに大地が暗くなるや嵐の中から突如として飛び掛った毛むくじゃらの大きな魔物、互いに上になり下になりの大格闘、勝負は付きそうも無く流石の剛毅な豊後守も身体綿の如く疲れてしまった。
その時どこからか飛んできて口に入った団子のようなもの、夢中でそれを飲み込んだ豊後守、急に元気を盛り返し魔物を組み敷くや、刀でその胸元深く突き刺ししとめた。
その後毎年魔物を退治した日になると、家来と共に祝うのを決まりとした。 この団子の評判が土地の名物となり、厄除け、魔除けの飛び団子を食べて旅をするならいとなったと言われている。 またその魔物を祀ったのがくまの地蔵という。 |
精霊塚 |
天正6(1578)年の上杉謙信の越中侵攻で、河田豊前守に攻められて討死した、大村城主轡田豊後守雅正をはじめとする戦死者を葬ったと伝えられ、付近から戦死者の遺品と見られる刀などが出土し、城の抜け穴と考えられるものもみつかっている。 |
そうけ塚南側 そうけ塚北側 |
天正6(1578)年の上杉謙信が越中の武将、轡田豊後守雅正の居城であった大村城を攻略した際、城の内外を望見するため、近村住民に、「そうけ一杯の土砂を持ち来る者には銭三文与えん」と、命じたところ、一夜のうちに大丘が築かれたとの伝えから、日方江の「そうけ(筒箕)塚」また「三文塚」とも呼ばれている。 現在は直径約20メートル、高さ約5メートルの砂山が残っている。 |
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