帝國博物学協会
越中國
大峪城
 所在地 富山県富山市五福町
 交通機関 JR高山線 西富山下車 徒歩5分
 別  名 伊賀城・大掛城・大懸城
 略  歴 戦国期には、富山城主神保長職によって築かれたというが、詳細は不明である。
天正13(1585)年、豊臣秀吉が富山城に籠る佐々成政を征討するために陣を北陸に進めた際、秀吉が本陣として定めた白鳥城の出城として、安田城とともに置れた。
成政は秀吉に降伏したが、佐々領として新川郡が残されたため、新たに越中西部を与えられた利家は、その押さえとして大峪城に片山伊賀守延高を入れた。
天正15(1587)年、成政に肥後一国が与えられ、隈本城に転封となると、新川郡は秀吉直轄領となった。
慶長4(1599)年、利家が没すると、利長は前田氏の本城金沢城へ移ったが、利家没後7日にして、延高は利長の命によって石川源太、松田直憲によって大坂で殺害された。
大峪城には替って代官置かれたが、慶長年間には廃城となったようである。
 現  況 五福小学校が建っている台地上が大峪城の主郭であり、その入口に城址案内板が立てられている。
主郭西側には土塁が残されており、南西側・南東側の櫓が置かれていたとされる場所は、若干高めになっており、何となく櫓台の雰囲気を感じさせる。
五福小学校東側の切岸下の県警職員住宅が二郭の跡となっており、その東側のグラウンドが三郭跡である。
グラウンド北側の県道沿いに、かろうじて往時の外掘跡が残されている。
三郭

外掘跡

三郭
二郭

ニ郭(県警住宅)

ニ郭(県警住宅)

ニ郭南切岸

ニ郭南切岸
主郭

主郭東側切岸

主郭南西角

主郭西側

城址案内板

主郭北東側

主郭北西側

主郭西側と
南西櫓台

主郭西側

主郭南西櫓台

主郭南側

主郭南東櫓台

主郭東側

主郭東側土塁

主郭東北端土塁
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