帝國博物学協会
越中國
放生津城
 所在地 富山県射水市中新湊
 交通機関 JR高岡駅下車 万葉線 中新湊下車 徒歩5分
 別  名 -
 略  歴 嘉元元(1303)年、名越北条時有が越中の守護として放生津に築城したといわれる。
鎌倉末期の元弘3(1333)年、南朝方に付いた桃井氏が北条一門の時有を攻め立て、時有以下一族郎党79名がこの城で自刃した。
室町期に入ると放生津は越中の中心として、守護代神保氏の城下として栄えた。
2009年5月15日追記
明応2(1493)年、室町幕府第10代将軍足利義材(義稙)が京都を追われると、放生津城主神保長誠を頼って越中に身を寄せた。
長誠は城の近くに越中御所を建てて義材を迎え、義材はこの地で京都の管領細川政元と対峙する事となった。
義材のもとには、戦乱の京都を逃れた多くの公家や僧・歌人等と共に、北陸地方を中心に多くの大名が訪れた事により、放生津は栄えた。
明応8(1499)年、義材は政元との和睦交渉が進展したために京都に近い、越前の朝倉貞景の元へ移っていき、放生津は再び元の守護代城下町となった。
永正17(1520)年、越後の長尾為景が越中に侵攻し、放生津城を攻撃、城主神保慶宗はこの地で自害した。
神保氏が、その後本城を守山城富山城へと移すと共に放生津城の重要度が下がり、前田氏の支配下に入った江戸初期には廃城となった。
 現  況 城址は放生津小学校付近に広がっていたが現在は小学校構内に立つ城址碑と近年復元された土塁があるのみである。
なお、城址東側の川には、二の丸橋という橋があり、この地が二の丸であった事を示している。

城址碑と案内板

城址碑
2009年5月15日追加

二の丸橋

二之丸跡

北東角櫓台状
復元土塁

城址碑と案内板

城址石碑

北側復元土塁

復元土塁西北端

本丸跡

東側復元土塁

東側復元土塁
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